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リテラシーと周囲知

Seibun Satow

Dec, 30. 2009

 

The child is father of the man;

And I could wish my days to be

Bound each to each by natural piety.

William Wordsworth My Heart Leaps Up

 

 ジェームズ・キャメロン監督の『AVATARアバター(Avatar)』(2009年)は映画を根本から変える可能性を秘めている。と言うのも、それは映画のリテラシーを再考することから始めているからである。従来の2D映画ではカメラのレンズは一本である。それを通してみると、対象との距離が失われ、奥行きのない平面と化す。「映像は坂道を現すのがとても下手です。カメラで坂を横から撮れれば傾斜がわかりますが、坂を正面から撮ると坂道には見えないのです。坂を見せようとすれば傾斜を誇張しなければなりません。望遠レンズで奥行きを圧縮したりして撮ることが多いようです。私たちがじっさいにそこにいる、という五感もそこにはありません」(小栗康平『映画を見る眼』)。3D撮影には、2Dで蓄積・形成されてきたこうしたリテラシーが十分に使えないため、衆知によって一から編み出さなければならない。その一つの成果がこの映画である。

 2009年は3D映画にとって画期的な年である。アメリカでは19本の3D映画が公開され、来年には、50本が予定されている。ここ数年、ビデオ・ゲームやDVDなどの普及により映画館離れが進んでいたが、相次ぐ3D映画の上映によって今年の入場料収入は昨年比でおよそ10%増加している。また、既存の映画を3D版としてリメイクする企画も進んでいる。さらに、この冬に行われるバンクーバー・オリンピックならびに夏の南アフリカ・ワールドカップ・サッカーも3Dで撮影されることが決まっている。

 しかし、ここに至るまで三次元映像は険しい道のりをたどっている。それは失敗の連続である。

 1950年代、テレビというライバルの登場によりアメリカの映画産業は陰り始める。50年を迎える頃、テレビの保有戸数は全米で約500万だったが、52年には2000万を突破し、60年代に入るときには5000万を超えている。1946年の映画のチケット売り上げは50億枚だったけれども、50年には、30億枚を割りこみ、わずか4年で観客数が3分の2に激減している。それにより製作会社ならびに映画館の経営は苦しくなる。350から400本だった年間製作本数が55年には250本に落ちこみ、50年からの3年間で、映画館は5000件も店をたたんでいる。この苦境を打開すべく、ハリウッドは映画館ならではの楽しみを持った映画の製作を進める。その一つが立体映画である。1951年に初の三次元映画が製作され、54年、アンドレ・ド・トス監督の『肉の蝋人形(House of Wax)』が本格的な立体映画として公開される。観客は偏光フィルターのメガネをかけると映像がスクリーンから飛び出して見え、また、音響も6本サウンドトラックによる立体音響という凝りようである。しかし、いずれの映画も不自然な動きに見えるや目が疲れるなど不評で、同時代に封切られた大作映画と違って、不成功に終わっている。その後も、アメリカだけでなく、日本などでも、時々3D映画が製作されるものの、際物に終始する。

 けれども、2000年代に入ると、状況が好転する。CG技術の向上に伴い、主にアニメーションの分野において商業的成功を見据えた3D映画が製作される。加えて、実写映画でも部分的にその技術を採用され、好評を博している。こうした経緯を辿りながら、2009年、3D映画はようやく定着する兆しを見せている。3D映画を上演するには、映画館に対応可能な装置を設置しなければならない。商業的に成功すると見こめれば、今までは二の足を踏んでいた経営者も設備投資に積極的になると予想される。3D映画の成長は産業の存亡がかかっていると言っても過言ではない。

 立体映像の研究自体は20世紀初頭から行われ、その基本的原理も早い時期に明らかになっている。人間の両眼視野は通常60度ほどあり、これは猛禽類と同じレベルである。対象との距離を正確に測るために、人間は両目を使って三角測量を行っていると言える。立体として対象を見るには、二つの目が必要になる。2台のカメラで撮影した映像を同期した映写機で投影し、それぞれの映像を左右の目で見ることによって「両眼視差 (binocular parallax)」が生じ、立体視、すなわち対象が鑑賞者と同じ次元空間に属しているという認知が体感される。ただし、動画の場合、それに胴部の運動に合わせて映像を変動させる「運動視差 (motion parallax)」を加える必要がある。

 原理はわかっていても、3D撮影は映画に使える技術にはなかなか到達しない。キャメロン監督は、20091215日の『クローズアップ現代』(NHKテレビ)によると、そこで三次元映像の技術を一から再検討し、カメラの製作から始めている。

 カメラを人間工学に則り、まず、2つのレンズの間隔を人の目の幅と同じ6.5cmに近づけている。その上で、人間の眼球運動をカメラで再現しようと試みる。物体が接近してくると、人の眼球は焦点を合わせるために内側に向き、遠のくと逆に動く。これをカメラで実現するため、今度は、キャメロン監督はロボット工学の専門家に協力を求めている。そのおかげで、2つのレンズの角度を素早く自在に変えられる「リアリティ・カメラ・システム(Reality Camera System)」が 出来上がる。

 さらに、3D映画で最も不評なメガネの改良に着手する。キャメロン監督はすでに3D技術が応用されている医療や軍事、航空宇宙などの先端領域に眼を向け、特に、NASAの火星の表面を解析するシステムを参考にしている。スクリーンには右目用と左目用の映像が交互に映し出される。その際、スクリーンから信号をメガネに発信して、その切り替えに連動するようにレンズを制御する。長年の課題は、火星の探査技術の応用によって、こう改善される。

 キャメロン監督は、他にも、3Dに対応したさまざま技術的革新を採用している。従来のモーション・キャプチャーやパフォーマンス・キャプチャー・ステージを改良したのもその一つである。リアルな3D映像の実現には、個々の技術の革新だけでなく、それら有機的かつ総合的な革新・統合が不可欠である。

 実は、映画への応用はともかく、2009年放映の『ネクストワールド:未来のエンターテイメント』(ディスカバリー・チャンネル)によると、3D技術の進歩は著しく、医療や軍事、航空宇宙だけでなく、設計やゲーム、訓練、教育などにも実用されている。2次元で撮影した映像を3次元かするのも、メガネを使わない3D映像も可能である。それどころか、画質はまだ低いものの、現行のスクリーンを用いずに立体映像を映し出すホロデッキのようなフォッグ・スクリーンも開発されている。

 たとえより高度な3D映像ができるとしても、それが映画として楽しめるものであるかどうかはサダカではない。視覚を始めとする心身へのストレスも不明な点が多い。また、あまりにリアルに再現しすぎると迫真さどころか、気味の悪さを感じてしまう「不気味の谷」の問題もある。他にも、新たなメディア・リテラシーも顕在化するかもしれない。さらに、3D技術一般ではなく、映画特有の課題も立ち現れるだろう。

 一つはっきりしているのは、三次元化すると、映像の抽象度が下がり、構図への意識が低くなるという点である。先に述べた坂道の撮影に望遠レンズを使う必要もない、しかし、それは必ずしも進化とは言えない。モノクロのサイレント映画は映像だけで物語らなければならない以上、構図も厳密に決める必要がある。ところが、トーキー映画では、その点が雑になる。無声映画出身のアルフレッド・ヒッチコック監督は発声映画の『知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)』(1956)の中でその手法を見せている。ロイヤル・アルバート・ホールで暗殺が実行されようとする10分間、音楽だけが流れ、セリフは一切ない。トーキー映画から撮り始めた監督にこの演出は難しい。

 『アバター』について3Dの出来栄えに少し触れておこう。実写部分は従来の映像と違う印象はないが、登場人物が背中を向けているときに、立体感を知覚する。CGの映像は、確かに、縦の構図の場合、スクリーンから飛び出して見える。ネイティリが弓矢を構える場面では、今にも矢が観客席飛んでくるのではないかと恐怖心さえ覚える。しかし、横の構図では、縦の動きがないと、立体感が乏しい。また、サイズが小さい生物の方が三次元の存在に見える。自然環境のシーンは3Dをたんに感じられるにとどまらず、とにかく美しい。他に、アングルのカットが多いけれども、3D映画のリテラシー上の必然なのか、この作品特有の技法なのか判断がつかない。3時間ほどの長編にもかかわらず、日劇マリオンのとある日の夕方の回では、トイレに立つものも現われず、観客が作品に集中しているのが雰囲気として伝わる。見終わると、利き目ではない側の目が疲れているのに気がつく。課題はまだまだ残っている。

 今、3D映画は衆知によって成長させていく段階である。キャメロン監督は、『クローズアップ現代』によると、もう2Dには戻らないと宣言している。未確定であっても、既存のリテラシーがまったく役に立たないというわけではない。それを参照しつつ、新しいリテラシーを構築することは有効である。2D映画のリテラシーの体系は非常に洗練されている。3D映画のリテラシーはそれを顧みながら、違いを明確にしていく。もちろん、3D映画にはそれ固有のリテラシーの構築が不可欠であるが、それにはエドウィン・S・ポーターの時代のように牧歌的に構えているわけはできない。膨大な人数で巨額の予算を投じて撮影する映画にそんな場当たりは許されない、3D撮影には、蓄積されてきた2D撮影の技法を用いられないことも少なくないため、製作者の間でもイメージを共有できない事態も予測される。衆知と言っても、3D映画のリテラシーの形成には現場の経験の積み重ねだけでなく、今回のメラやメガネの開発が示しているように、諸研究・科学技術の開発の体系的・総合的な参照がより効果的である。衆知はアナーキーな試行錯誤ではなくて、一般観客と専門家、すなわち製作者ならびに技術者の協同的なコミュニケーションである。

 ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を用いて、このようなリテラシーの形成過程をコミュニケーションの結果から事後的に見出されるたんなる共共有コードにすぎないと批判すること建設的ではない。彼は、『哲学探究』83において、言語ゲームにおける規則について次のように述べている。

 

 このとき、言語とゲームの類比が光明を投げかけてくれないだろうか。われわれは、ひとびとが野原でボール遊びに打ち興じ、現存するさまざまなゲームを始めるが、その多くを終りまで行わず、その間にボールをあてもなく空に投げたり、たわむれにボールもって追いかけっこをしたり、ボールを投げつけ合ったりしているのを、きわめて容易に想像することができる。そして、このとき誰かが言う。この全時間を通じて、ひとびとはボールゲームを行っているのであり、それゆえボールを投げるたびに一定の規則に準拠していることになるのだ、と。

 でも、われわれがゲームをするとき──〈やりながら規則をでっち上げる〉ような場合もあるのではないか。また、やりながら──規則を変えてしまう場合もあるのではないか。

 

 Doesn't the analogy between language and games throw light here? We can easily imagine people amusing themselves in a field by playing with a ball so as to start various existing games, but playing many without finishing them and in between throwing the ball aimlessly into the air, chasing one another with the ball and bombarding one another for a joke and so on. And now someone says: The whole time they are playing a ball-game and following definite rules at every throw.

 And is there not also the case where we play and-make up the rules as we go along? And there is even one where we alter them-as we go along.

 

 確かに、子供たちが既存のゲームを状況に応じて変更することは少なくない。三角ベースがその典型だろう。また、ゲームにおけるルールはコンセンサスであるかので、ニッカボッカ・ベースボール・クラブによるルール作成のように、それが未確定な状態ではルールの試行錯誤が見られる。しかし、ウィトゲンシュタインの挙げた例は、記録や勝敗を競う目的を欠いている以上、ゲームではない。キャッチ・ボールがそうであるように、遊びやトレーニング、儀式とは言える。スポーツにおける自己実現は、この記録や勝敗を競う目的を基盤とした上での到達感である。言語がその目的がゲームほどはっきりしていないので、エ両者の類推は必ずしも適切ではない。

 球技を例にゲームを考えてみよう。スポーツにおいてルールは明文化されているが、それは三つの階層秩序をしている。

 第一が不可侵のルールである。その種目を定義づけているため、変更できない。それをいじってしまうと、他の種目になってしまう。ラグビーのスローフォワードやサッカーのハンドの反則それに当たる。

 第二が概観のルールである。大枠を定めており、それを変えると、その種目に属しているには違いないが、派生系を生み出す。ソフト・テニスや車椅子バスケットなどの誕生がそれに含まれる。

 第三が進行のルールである。諸々の事情によりそのゲームをより面白くする目的で、それを改めても、派生系が生まれるわけでもなく、ゲームの進行に影響を及ぼす。野球の指名打者制の採用やバレーボールのサービス・ポイント制からラリー・ポイント制への変更、用具や試合場の規定、禁止薬物の指定などほとんどのルールがこの第三のカテゴリーに属している。

 不可侵のルールに変更はない。概観のルールは、はっきりした意図に基づいて事前に設定される。また、進行のルールは改訂に際して、理由の説明はもちろんのこと、罪刑法定主義に則っている。ルールは、不都合から改正されるときであっても、事前承認を原則とする。

 こうしたルール以外に、明文化されていない慣例もある。個々の作戦やプレーの多くはこれに含まれ、ルールに対して、「規範(Norm)」と呼ぶことができよう。

 規範はルールと違い、それを知らなくてもゲームに参加できる。ただ、たいていの場合、それは惨憺たる結果に終わる。ルールには遵守する義務があるのに対し、その規範を選択するかどうかは行為者次第である。ルールは明文化されているので、ルール・ブックを開けば。それはわかる。しかし、規範はある程度そのスポーツに慣れ親しんだものに内在化され、暗黙知として働いている。初心者が知りたいのは、むしろ、この規範の方である。リテラシーはルールと規範によって構成されているが、入門書で解説されるリテラシーは主に後者である。

 規範も三つに大別できる。それをゴルフの例を用いて解説しよう。なお、これらの規範は優劣の関係になく、同心円状に位置している。実際のゲームで勝利するには、フロックもありうるけれども、いずれの習得も不可欠である。

 第一に基礎的規範が挙げられる。用具や身体の使い方、科学的原理などプレーする前に必要な知識・技能である。グリップやスタンス、スイング、トレーニングなどがこれに相当する。

 第二は演習的規範である。各局面での対処に必要な知識・技能を指す。パッティングやバンカー・ショット、ショートゲームなどがこれに当たる。

 第三が実践的規範の範疇である。実践を進めていくのに必要な知識・技能と見なせる。トラブル・ショットやメーキング・ザ・ショット、コース・マネージメントなど18番のホールをラウンドアップするための方法をイメージすればよい。

 規範は、確かに、フィードバックによって生成されてきたことが認められる。ウィトゲンシュタインの指摘はルールと言うよりも、その意味で、この規範に当てはまる。柄谷行人は、『語ることと教えること』において、分析哲学者のイズラエル・シェフラーを参考に、言語ゲームを教える=学ぶという関係から考察している。彼の論点は教える立場にあるが、その場合、目目標到達を明確にしなければならない。その上、学ぶものは教えるものを超えられないのかというメノンのパラドックスも浮かび上がる。むしろ。重要なのは学ぶ立場である。教えるものも、実は、学んでいる。佐藤学東京大学教授は、理解を「たんに自分が『できる』レベル」・「できたことが『説明できる』レベル」・「『教えられる』レベル」・「『相手の学びを支援できる』レベル」の四つに分類している。この中で、一番最後が最も高度である。自分とは違う考え方を理解しなければならない以上、この一番高いレベルを目標に設定する。これが学び合う関係をつくることであり、それは対等である。暗黙知を明示化でき、それを他者に納得させられるとき、人間関係は対等になる。規範も学びの中でつくられていくのであって、言語ゲームという考えはそれが十分ではない。

 ルールと規範の関係は固定的ではなく、変動する。規範が(事実上も含めて)ルール化することもある。こうした区分はスポーツだけでなく、遊びや学問、科学にも適用できる。ポーカーや将棋、囲碁のように、基礎的規範がルールの範疇に入っているケースもある。スポーツ同様、その目的が明確であると、ルールの明文化が実施される。一方、そうでない場合、ルールもさることながら、規範、すなわち暗黙知の支配がより大きいそこでは、不毛な混乱を避けるためにも。その明示化が重要になる。

 閉じられた世界においては、他者を事実上無視できるので、暗黙知のままでもかまわない。しかし、開かれた世界では、他者の問いに答えるため、明示化しなければならない。他社は外部の存在であり、内部の論理では納得しない。いかに衝動的な人であっても、他者になると、論理主義者である。しかも、内在化された知を改めて形式化するとき、インサイダーにとっても認識の質が向上する。自分の世界を他者の目から見て、客体化することができるからである。

 暗黙知は内在知であり、明示知は形式知である。暗黙知を明示知へと顕在化することは独占されてきた知の民主化にほかならない。ただ、暗黙知を明示知とする場合の他者は下流にいて、その結果にのみ参与するだけである。しかし、他者が過程の上流から参加することが必要な領域もある。前者が疑問を投げかるだけの「受動的他者」だとすれば、後者はそれにとどまらず、提案も行う「能動的他者」と呼び得る。 

 こうした「パブリック・エンゲージメント(Public Engagement)」は、2001年に発効した「オーフス条約(The Aarhus Convention)」がその重要性を認めている。これは正式名称を「環境に関する、情報へのアクセス、意思決定における市民参加、司法へのアクセスに関する条約(Convention on Access toInformation, Public Participation in Decision-making and Access to Justice in Environmental Matters)」という。なお、日本は批准していない。また、アメリカに所在する「世界資源研究所(WRI)」など科学技術と民主主義の問題に積極的な期間もある。もちろん、日本もこの流れを考慮している。2001年に閣議決定された文部科学省の「科学技術基本計画」においてすでに提言されている。科学者集団による市民への科学技術の説明、ならびに市民の科学リテラシーの向上がそこでは謳われている。けれども、200911月に実施された事業仕分けを見る限り、これが科学者集団や行政官、市民の間に浸透しているとはとても言いがたい。

 その一つが3D映画である。リテラシーが多くが未確定な領域の場合、暗黙知の明示化作業だけでは不十分である。未知の領域に進んで追いくには、衆知を結集するために、知は周囲と共有され、その間で相互作用される必要がある。それを「周囲知(Ambient Knowledge)」とも「協同知(Collaborative Knowledge)」とも命名することもできよう。

 3D映画だけでなく、これから科学技術の発展により、リテラシーの決定していない未知の世界へ足を踏み入れる機会も多くなるだろう。かつても未知の世界に足を踏み入れる経験はあったが、技術の進展の速度が遅かったこともあり、そのリテラシー形成は試行錯誤の中でゆっくりと進んでいる。そこには欲望や野心に溢れたるパイオニアの果敢な挑戦がつきものである。しかし、もはやそういった悠長な時代は過ぎ去っている。自然発生的な試行錯誤が徐々に淘汰されて形成された規範を共通基盤とすることはもうしない。標準的なリテラシーを構築する共通の場を設け、そこを土台とする。

 それをよく示しているのがインターネットである。この技術は発展途上であり、「インターネット技術調査委員会(IETF)」が衆知を結集するため、ネット上「でリクエスト・フォー・コメント(RFC)」を設置している。この委員会はインターネット学会の下部組織で、テーマ別のエリアの中に小さなワーキング・グループがあり、具体的・技術的な問題を討論する。RFCIETFが公式配布し、各種プロトコルやファイルフォーマットに関する技術情報などネットの技術使用野の標準化を主に示すドキュメントである。インターネット技術は堆積した暗黙知を明示化するのではなく、最初から明示知の作成へ向かう。

 こうした標準化の企ては暗黙知の形成過程自体を明示化を試みている。これが周囲知である。従来の衆知による規範淘汰は革新を生み出す反面、出たとこ勝負であり、失敗を生かし、そこから学ぶことには冷ややかである。成功は幸運の賜物であり、失敗には必然性がある。キャメロン監督が3D技術の開発の際に、数値に拘ったのもそのためである。数値的な解析は、うまくいかなかった場合でも、修正するのに便利である。内在知を生まれる瞬間から解剖して可視化すれば、具体的な提案をより広く衆知から求められる。知識は周囲にあり、協同作業によってそれは見出される。

 リテラシーから考えることは他者が表現者や発信者、制作者、プレーヤーの立場に置いて認識することである。未知の世界に踏み出し、リテラシーが確定していく過程に立ち会えるというのは非常に刺激的である。確定したリテラシーを解剖して吟味し、そこからいまだ決まっていないものを考察することは十二分に可能である。暗黙知ならびにその形成過程を明示化することは、社会に意義を納得してもらい、それとの相互作用を通じて、そのさらなる創生につながる。内在知を形式化しないのは、社会に対する無関心や無視、軽蔑の現われにすぎない。そうやって胡坐をかいていると、後継者不足やファン層の現象、人々からの反発を招く危険性がある。中でも、文学がリテラシーへ冷淡な態度をとり、恣意的なことを繰り返しているのは、いただけない。暗黙知の生成過程自体を明示化する周囲知は社会によるリテラシーの構築である。自分の世界に没入するのではなく、積極的にリテラシー構築の過程への参加を社会に呼びかけるべきだろう。周囲知は社の、社会による、社会のためのリテラシーを実現する。

〈了〉

参考文献

井上一馬、『アメリカ映画の大教科書(下)』、新潮選書、1998

小栗康平、『映画を見る眼』、NHK出版、2005

佐藤学、『習熟度別指導の何が問題か』、岩波書店、2004

ル−ドヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『ウィトゲンシュタイン全集8』、藤本隆志訳、大修館書店、1976

『現代思想臨時増刊総特集ウィトゲンシュタイン』、青土社、1985

文部科学省、「科学技術基本計画について」、2001

http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/kihon/honbun.htm

佐藤清文、「ファティックとしての映画エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』」、2007

http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/porter.html

佐藤清文、「カスタマイズとコミュニティジェネレーションXの時代」、2008

http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/generationx.html

Baseball Hall of Fame

http://community.baseballhall.org/

UNECE

http://www.unece.org/env/pp/

WRI

http://www.wri.org/

 

 

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